ルネ・フレミングのどこが、どのように素晴らしいのか

  2014年6月18日、世界の歌姫ルネ・フレミングを主賓歌手に迎え、「東京国際コンサート」が開催されました。大盛況のうちに終えることができ、誠にありがとうございました。
  ここに、マスコミ各社からの質問に、半田会長が答えた文章を紹介します。
  また、ルネ・フレミングのどこが、どのように素晴らしいか、半田会長によるエッセー風の解説も紹介します。これは、マスコミからの問い合わせの、答えにもなってるものです。文章が少々長くなりましたが、半田会長の「音楽オペラエッセイ」のつもりで、お楽しみ下さい。半田会長は、優れた文芸家でもあるので、これも作品のひとつとしてお楽しみ下さい。

(1)ステージを終えての感想はいかがでしょうか。
   ルネ・フレミングの歌声はいかがでしょうか。

(2)フレミング氏との初共演の感想はいかがでしょうか。

  ルネも私も、考えてることは同じです。音楽はエンターテイメントであり、観客が喜んでくれたらいい。だから、ルネも、どんなお客さんが来るのかと、事前に聞いてきました。
  今回のコンサートは、無料での抽選でしたが、5800人以上が応募し、約1500人が当選しました。4人に1人が当たったのです。そして、音大生や、音楽を学ぶ若者たちを、勉強のために招待しました。合計、約1800人が鑑賞したのです。
  どんな層の観客が来て、どういうレパートリーをやれば喜んでくれるか。ルネも私もそれしか考えていません。何回も、スタンディングオベーションがあり、IFAC副会長のオペラ界の重鎮や、IFAC理事の音大教授も、「過去最高のコンサートだった」と、評価してました。二人とも、涙ぐんで聴いたそうです。
  皆がそう言ってたので、ルネも、コナルも、私も満足しています。
  世阿弥の書いた「風姿花伝」は、世界最古の演劇論ですが、「花」とは観客の感動であると述べています。
  クラシックでも、ポッブスでも、能でも、演劇でも、舞台芸術とは、本来そういうものです。しかし、その原点を忘れ、自分たちの流派や、自分を見せたいと考えると、舞台芸術の原点からはずれていきます。
  ルネも、コナルも、私も、自分をどう表現するとか考えていません。
  観客が喜ぶことが第一なのです

(3)ユーモアを交える理由をお教え下さい。

  ユーモアをまじえるのも、同じ理由です。
  日本人は、クラシックや芸術とは、「退屈で、よくわからない、眠くなるもの、それがわからないのは、至らない自分が悪い」と考えがちです。
  しかし、たとえば、私が歌ったモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」は、主役が次から次へ女性に手を出し、地獄に堕ちたという話に、素晴らしい音楽がついたものです。本来、モーツァルトのオペラは、そういうユーモアに満ちたものです。
  だから、第一部の「ドン・ジョバンニ」のアリアの時は、オペラの雰囲気が出て、観客に楽しんでもらうため、ユーモアをまじえたコスプレで演出したのです。
  また「フィガロの結婚」は、領主の初夜権をからかったものです。その中のアリア、「もう飛ぶまいぞこの蝶々」は、すぐに恋をするケルビーノを、軍隊に行かせる時の歌です。だから、オペラのシーンを思い浮かべるよう、軍隊と映画「マトリックス」風の芝居をもりこんだのです。
  モーツァルトのオペラは、しばしば品のない最低の内容に、最高の音楽がついたものが多い。しかし、日本人はそれを敬い、かしこまって聞くものだと思っています。だから、その意識をぶち破り、舞台芸術の原点に帰るため、楽しく演出するのです。
  それが、ユーモアをまじえる第一の理由です。

  ユーモアをまじえる第二の理由は、観客の気持ちをほぐし、リラックスさせるためです。緊張して聴くと、泣ける場面でも、泣けません。しかし、楽しくリラックスした後に、カンツォーネや「ダニーボーイ」を聞くと、心から感動し、気持ち良く泣けるものです。
  だから、シェークスピアは、悲劇でも、節々にユーモアがあります。能楽でも、必ず能の間に狂言が入ります。
  クラシックでも、第3楽章には必ずスケルツォが入り、楽しく気持ちをほぐします。
  ユーモアで感情がほぐれ、笑った後に涙があると、観客は満足して帰って行くのです。舞台芸術の基本は、藤山寛美の松竹新喜劇と同じなのです。

(4)日本で最も権威ある、新国立劇場のオペラハウスでのコンサートでしたが、実際に舞台に立ってみて、その雰囲気や設備などいかがでしょうか?

  新国立劇場のオペラパレスは、雰囲気も音も最高に素晴らしいです。私の友人で、「トスカ」のカバラドッシ役などを歌う、世界的なテノール歌手がいます。彼は、「新国立劇場は、スカラ座よりも音がいいよ。歌いやすいし、非常によくできたオペラ劇場だ」と言ってました。
  日本政府の威信と金をかけて作った、国立劇場にふさわしい、最高のオペラ劇場でした。

(5)アンコールに「ふるさと」を選んだ、意図を教えて下さい。

  東日本大震災と津波の復興を期し、4人組の「イル・ディーヴォ」が歌った「ふるさと」に、皆が泣き、勇気づけられました。それ以外にも、多くの歌手や合唱団が、「ふるさと」を歌い、人々を勇気づけました。「ふるさと」は、日本人なら誰でも知っています。それを、ルネに説明しました。すると、ルネも「それはいいね」と、一緒に歌うことになったのです。
  1番は私の独唱で、2番はコナルとの二重唱、3番でルネが加わる、三重唱にしたのです。最後は、ルネが生きるような編曲にしました。オケで三重唱の「ふるさと」というのは、珍しいと思います。
  観客も、大泣きに泣いてました。笑うべき時に笑い、泣くべき時に泣く。それで、感動が深くなり、観客は満足するのです。このように、ルネもコナルも私も、何よりも、ステージと観客とのコミュニケーションを大事にします。それが、舞台芸術にとって、1番大事なことだと確信するからです。

(6)半田会長にとって、クラシックとは? また音楽とは?

  まず歌手としては、音楽の芸術性や発声、表現力、音楽理論の理解を深め、高めるための教科書です。この訓練のおかげで、どんなポップス、ジャズ、ロック、演歌、アニソンでも歌えるのです。しかも、高いレベルで。
  しかし、芸術家としては、もっと別な捉え方をします。そもそも、クラシックや音楽とは、観客が喜び、観客が感動し、観客を幸せにするものです。
  清華大学での、博士論文にも書いたことですが、「芸術のための芸術」、いわゆる今日の芸術論の主流は、19世紀のフランスから生まれたものです。
  18世紀のモーツァルトぐらいまでは、パトロンがいて、お金をもらい、注文を受けて作ったものです。だから、パトロンの貴族が、喜んでくれたらそれで良かったのです。
  16世紀のルネサンスの巨匠たちも、パトロンが居て、パトロンに喜ばれたらそれで良かったのです。そこに、普遍的な価値があったからこそ、現在まで残っているのです。
  そういう、貴族お抱えの絵師や音楽師の時代が過ぎ、19世紀は、その反動でプロレタリア芸術が生まれました。しかし、自分達は貴族お抱えでもなく、プロレタリア芸術でもないと信じた人々が、「芸術のための芸術」という、新たな価値観を生んだのです。これが、今日まで続く、芸術論の主流になっています。
  しかし、このクラシックを理解する美学は、普遍的、絶対的なものではありません。19世紀のフランス人が、勝手につくった価値観です。日本には、もっと高いレベルの、クラシックや音楽、芸術に対する価値観があるのです。
  15〜16世紀の日本では、観阿弥、世阿弥、本阿弥光悦、能阿弥など、「阿弥」が活躍しました。「阿弥」は時宗の影響を受け、「南無阿弥陀仏」という言葉からきたものです。すなわち、「南無」は俗人、「陀仏」は出家を意味し、その中間が「阿弥」なのです。
  阿弥達は、俗人でも出家でもない、自分達は「阿弥」だという、自覚と誇りをもちました。つまり、芸道をやり続けるプロセスで、魂を磨き続け、それを作品にあらわすのが、阿弥達の生き方だったのです。こうして、一生を芸道に捧げたのです。
  これが、日本型のルネサンスです。
  これは、今日でも、日本の芸術家に受け次がれる精神です。また、世阿弥は、世界最古の演劇論である、「風姿花伝」を書きました。ここで、最も尊重されるのが、「花」という概念です。「花」とは、観客の感動であり、観客を感動させる神なるもの、輝かしい花のような美のことです。今日よく、「あの女優には華があるね」とか、「あの歌手には華があり、オーラがあるね」などと言います。この「華」とは、「華やか」という言葉から来たと思うでしょうが、実際は、「風姿花伝」の「花」から来てる概念です。能から歌舞伎が生まれ、歌舞伎から日舞や新劇、新国劇が生まれたのです。「風姿花伝」は、六百年経った今日でも、能楽師の教科書です。六百年間愛される、最古最大最新の演劇論「風姿花伝」が、「ハナがあるね」のルーツである事は、疑いようがありません。それ故、本当は、「花があるね」と書くべきなのです。
  ところで、この花伝書を見れば、どのような演技も、観客が感動しなければ意味のない事が解ります。そして、究極のものは、年を取って外見の花がなくなり、その代わり演技の花で、観客を感動させるのが「花の中の花」なのです。ここに、最高の価値を見出すのです。
  19世紀のフランスより、15世紀の日本の方が、より深い芸術論、より深淵で、普遍的な舞台芸術論を生んだのです。そう確信します。
  能楽師であり、京劇俳優でもある私にとって、西洋音楽、クラシック音楽、オペラやバレエなどは、拳拳服膺(けんけんふくよう)して仰ぐ芸術ではありません。私は、音大の大学院も出ましたが、西洋音楽など尊敬してません。愛してるだけです。西洋人も尊敬してません。優れた人、いい人は敬愛しますが、日本文化と日本人に自信と誇りを持ちます。だから、ヴェルディやプッチーニ、モーツァルトのオペラも、グチャグチャにして、日本流に演出して観客を楽しませます。
  それが、あらゆる舞台芸術の原点であり、そうする日本人を、西洋人が尊敬するのです。蜷川幸雄が、世界で評価される理由も、同じでしょう。
  これが、芸術家としての、私にとってのクラシックや音楽です。

(7)半田会長とフレミング氏の出会いは、どのようなものでしたでしょうか?

  ルネ・フレミングは、国民的歌姫です。クラシックを超越した、アメリカの美空ひばりのような存在です。ルネが登場すると、歌う前から感動する人が大勢います。
  私の友人マイケル・ボルトンは、グラミー賞を2度受賞した、世界的なポップス歌手です。しかし、クラシックが好きで、ルネやプラシド・ドミンゴ、パバロッティと歌ったこともあります。マイケル・ボルトンと私が、シンガポールで共演したときも、オペラ「トゥーランドット」のアリア、「誰も寝てはならぬ」を、イタリア語で一緒に歌いました。
  そのマイケルが、ルネと親しく、「素晴らしい歌手であるだけでなく、素晴らしい人間性の人だよ」。そして、「天から授かった、神なるものを持ってる人だ」と、紹介してくれたのです。
  また、私の友人コナル・コードから、5年くらい前に、ブリスベンでルネのコンサートがあった時の話を、詳しく聞きました。45分くらいのコンサートのあと、あまりにもブラボーが続くので、アンコールで、「ばらの騎士」の元帥夫人のアリアや、「フィガロの結婚」の伯爵夫人のアリア、「椿姫」のヴィオレッタのアリアなど、有名で難しいアリアを、5曲か6曲歌い続けたそうです。それでも、ルネの声は最初と全くかわらず、コナルさんは腰を抜かすほど驚いたそうです。
  そして、いまのジュリアードの副学長は、元メトロポリタン歌劇場のディレクターで、ルネと親しく、「ルネ・フレミングは本当にすばらしい人。わがままで傲慢で、やりにくいソプラノが多い中、ルネは、人間性もすばらしい」と言ってたのです。
  IFACでは、ジュリアードに日本人学生が行ける道を開きました。また、ジュリアードの卒業オペラ公演を、3つスポンサーし、ジュリアードの優秀な先生の講座(チェア)を作っています。そして、ルネはジュリアード出身で、ジュリアードのマスタークラスを教えています。また、ルネは、ジュリアードの名誉博士号をもらっており、この点は、私と共通しています。
  それで、来年、ニューヨークでルネ・フレミングを中心とした、音楽祭があるのです。それを、IFACがスポンサーして、私がコ・チェアマンを務めることになりました。
  これらのきっかけが重なり、ルネと親しくなったのです。
  今後は、音楽教育や、ジャンルをこえた音楽振興、チャリティで協力していく予定です。

(8)今回のコンサートは「円熟した歌唱芸術を多くの日本人に」という目的で、無料で1800人を招待して行われました。その中には、日本の音楽芸術を担ってゆく、若い音楽家たちも多く招待されています。
こうした取り組みについての印象と、若い世代の音楽家に対するメッセージをお願いします。


  なるべく若いうちに外国に出て、世界を知らないと、才能があっても、小さな花で終わってしまいます。日本の指導者で、クラシックもジャズもポップスも、ミュージカルも教えてくれる、世界レベルの先生はいないからです。
  私も、オーストラリアの二大音楽学院のひとつ、アカデミー・オブ・パフォーミングアーツの大学院で、修士号をとりました。3年かかりました。そこで、当時、世界の五大バリトンだったグレッグ先生と出会い、世界レベルの技術と表現を学びました。グレッグ先生は、クラシックとミュージカル、ジャズやポップスとの明確な違い、歌い分けを教えてくれたのです。
  グレッグ先生は、ドミンゴが「オテロ」を歌う時の、イヤーゴ役で有名でした。またドミンゴが、最も好きなバリトンとも言われてました。スカラ座での、「ナブッコ」の主演では、大ブラボーの連続だったのです。
  彼が、シドニーオペラハウス専属の、国立オペラ・オーストラリアの団員だったとき、年間260回ぐらいオペラの本番があったそうです。そして、50才で引退するまで、8000回以上の舞台を務めたのです。
  日本の歌舞伎座では、いつでも歌舞伎が見れます。北京の京劇院では、毎日京劇が見れます。同じように、ヨーロッパやオーストラリアでは、いつでもオペラが見れるのです。
  ドイツの歌劇場の専属歌手になった人に聞くと、1週間のうち、本番が5日間夜にあるそうです。そして、団員は、5日間全部ちがうオペラに出演します。日中は、次のオペラの練習をするそうです。休みは、週に2日です。だから、1ヶ月で20回、年間240回のオペラの本番をやるのです。
  しかし、日本では、新国立劇場でも、年10回くらいしかオペラ公演はありません。そして、その全てに出演する、オペラ歌手は居ないのです。二期会でも、多くて年に8回、藤原歌劇団も、年に2回ぐらいです。これも、その全てに出演する歌手はいません。日本とヨーロッパでは、本番の数が圧倒的に違うのです。だから、ヨーロッパのオペラ歌手は、毎日それだけ歌っても、声帯に負担をかけないテクニックが要ります。演技力や発声、音楽知識も、その数をこなすだけのものが要るのです。
  一方、日本の声楽家は、喉を痛めないよう、1日1時間しか練習しないと言われます。しかし、ロッシーニのオペラ「ウイリアム・テル」は、本番が5時間、ワーグナーのオペラは、本番が6時間です。1日1時間しか歌わない人が、これらの主役をやれるはずがないのです。
  グレッグ先生も私も、休み休みしながら、1日8時間くらいは歌い続けました。彼と私が共同設立した「オーストラリア・オペラ・スタジオ」は、5年間運営しましたが、そこの生徒も、教室で6時間歌い、宿題で2時間家で歌いました。これを、2年間続けると卒業です。そして、2週間に1回、生徒は教会で一般人の前で、新曲のコンサートをやるのです。さらに、年に2回オペラをやります。つまり、2週間に1回、新曲を15曲ぐらい暗譜するのです。
  この研修のおかげで、卒業生はヨーロッパやシドニー・オペラハウスで、立派に専属歌手としてやって行けるのです。
  こうした、オペラ文化の違いを、日本の学生はわからないし、知らないでしょう。
  また、世界は英語が中心です。マネージャーやエージェントも、全部英語で仕事をします。だから、英語ができないと、世界の舞台で仕事がもらえないのです。
  ですから、1番いいのは、若いうちにジュリアードなど、アメリカに行くか。オーストラリアやイギリス、カナダなど、英語圏で学ぶことです。イタリア、フランス、ドイツに留学するのもいいでしょう。しかし、英語学習は欠かせません。10代、20代で、世界レベルのパーフォーマンスや発声を学ばないと、へんな癖が日本でつくと、なかなか抜けないのです。
  サッカーや卓球、ゴルフ、スキー、テニス、フェンシングなど、スポーツ界では、若いうちに海外で学んだ人が、オリンピックでメダルを取り、世界レベルで活躍しています。
  日本の若き声楽家達も、若いうちに外国へ飛び出し、世界レベルの発声やパフォーマンスを学び、大きな花を咲かせてほしいです。
  そして、やがて日本に戻り、次の世代を育ててほしいと願います。


  最後になりましたが、今回の東京国際コンサートでは、ロベルト・アバドの指揮も良かったです。
  「こんなにいい指揮者は、なかなかいない。指揮がクリアーで、オーケストラの音や雰囲気が全然ちがう。今までのシティフィルの演奏で、最もよかった」と、私の親しい音大教授が絶賛してました。
  そして、ルネ・フレミングとロベルト・アバドは、「オーケストラも素晴らしかった。大変いいオケだった」と褒めてました。

(9)ルネ・フレミングのどんなところがすごいのでしょうか?

  環境、テクニック、テクニックを超えたもの。この、3つのポイントから説明します。
  まず、環境です。ルネは、両親が声楽家で音楽教師という、恵まれた音楽環境で育ちました。
  しかし、オーディションで次々に落ちたり、ブーイングを受けたり、恵まれすぎなかったところもたくさんあります。だから、謙虚でやさしい、素敵な人間性なのです。アメリカ人は、それをよく知ってるので、国民的歌姫として親しまれるのです。
  また、環境と言えば、ジュリアードの大学院で学んだ事も、恵まれた事です。そこで、解剖図を示され、頭蓋骨や体のどこに音を当てるかを教えられます。また、その80才近い女性講師に、歌や発声だけでなく、人生の考え方、歩き方、表情、話し方、服装のセンスなど、細かい所まで教わりました。ルネは「まるで、マイ・フェア・レディのヒギンズ教授と、イライザのようだった」と言います。
  これらは、どこから来るかと言えば、ジュリアードの教育方針から来るのです。
  日本の音大では、単に音楽を教えるだけですが、ジュリアードでは、「音楽業界のリーダーを育てる」のが教育方針です。そして、そのために、生徒が学びたいものが自由に学べる、優れたシステムがあるのです。言わば、注文建築やオートクチュールのように、その人に合った個別の教育プログラムが立てられるのです。これを、徹底してやる所が、日本の音大との大きな違いです。
  また、隣のビルが、メトロポリタン歌劇場です。だから、生徒はいつでも、世界のトップレベルのオペラを、格安の学生割引で鑑賞できるのです。また、そこに出演する、世界レベルの歌手との交流もあります。
  こういう、教育方針や環境が、ルネのヒギンズ教授にあたる恩師の、教育姿勢につながるのです。
  次に、テクニックの説明をする前に、今回のレパートリーについて説明します。
  今回のコンサートで、ルネが歌った「フィガロの結婚」の伯爵夫人のアリアは、14年ぶりに歌ったそうです。ルネは、伯爵夫人役でデビューしたので、私がリクエストしたのです。
  また、私の親しい音大教授やソプラノ歌手に、ルネが来たら何が聴きたいか聞きました。すると、「シュトラウスの歌曲を聴きたい。ルネは、シュトラウスで定評があるから」と言ってました。だから、今回のレパートリーに、シュトラウスを入れてほしいと、リクエストしたのです。
  すると、ルネは、「私のことをよく理解してくれてありがとう」と言ってました。
  親しい音大教授は、「このレパートリーは、上品で美しい曲ばかりで、どれもいい曲。涙が出るほど、聞きたい」と言ってました。
  アンコールも、「ドン・ジョヴァンニ」の「(奥様)お手をどうぞ」と、「ふるさと」は私のリクエスト。最後の「マイ・フェア・レディ」の「踊り明かそう」は、ルネのリクエストです。それ以外は、全てルネが決めたのです。
  ルネが、最終的にレパートリーを決めたのが、6月上旬です。そこから楽譜を揃え、パンフを作ったのです。楽譜が全部揃ったのが、オケ練習の2日前です。だから、楽曲紹介の文章を作っても、それを英訳し、さらに、ルネがその英文をチェックしなければ、パンフを出せない契約だったのです。それで、物理的に不可能なので、楽曲紹介をパンフに載せられなかったのです。それでも、さすがにルネが熟慮したレパートリーです。素晴らしいの一言に尽きます。

  ここからが、テクニックの話です。
  ルネのシュトラウスは、ふつうの日本の歌手より、2倍から3倍ゆっくり歌います。それだけ、音を長く、正確に保つテクニックがないと、あんなにゆっくりは歌えません。素晴らしい、ブレスコントロールです。
  また、曲によって、声の出し分けが自由自在にできることに、クラシックの専門家は驚き、感激してました。
  有名なアリア「私のお父さん」も、ふつうの2倍ゆっくりなテンポです。早く歌うのはやさしいですが、ピアニッシモで、ディミヌエンドで小さくなるのを、狂わず、たっぷり、ゆっくり歌うには、優れたテクニックが要ります。そして、そのピアニッシモの極致の言葉が、3000人の観客の、最後尾の耳元にちゃんと届き、正しく聴き取れるのが本当です。
  本当のベルカント唱法をマスターした人は、声量よりもこの響きのテクニックを重視します。昨年度のゲスト、キリ・テ・カナワも、全く同じでした。これが、世界トップレベルの歌唱技術なのです。
  ところで、「レガートは歌唱の芸術」と言います。ゆっくり、たっぷり、レガートに歌う所に、その歌手の芸術性が表れます。
  先程、優れたテクニックと書きましたが、どんなテクニックかと言えば、たっぷり息を吸い込む技術、少しずつ均等に息を出す技術、声量よりも響きに重きを置く技術、キューゾ(響きを集める)に徹して、息が余計にもれなくする技術、音程によって当てる体のポイントや、筋肉の働きをキープする技術、ジラーレ(声を曲げて歌う)の技術、母音を、体から離して飛ばす技術、声帯が柔らかいままにする脱力技術、声帯を柔らかいままにして、ほぐしながら歌うビブラートの技術、ソットボーチェの技術、ステージで緊張したり、硬くならない心理的技術、心を届けるための、イメージの技術などです。
  この上に、歌詞に添うようにフォルテを、何段階にも分け、ピアノやピアニッシモを、何段階にも分けて歌うのです。それから、歌詞の意味によって、音色を使い分け、表現の幅を広げます。これらが一体となって、あのゆっくりで、感動する歌が歌えるのです。オペラのアリアの場合は、歌詞や物語に没入し、役柄になり切って感情移入するので、皆、泣けるのです。
  これが、歌唱芸術が極まる時であり、心に沁み入ると同時に、歌唱の美を実感する時です。現象学のフッサールなどが言う、バックの演奏と歌手の歌、そして、客観の心が一つになった時、美が完成するという瞬間です。まさに、この事を言うのです。ルネは、これがいつでもできるので、専門家が高く評価するのです。
  ところで、カデンツァという技術があります。しかし、クラシックのカデンツァと、ポップスのカデンツァは違います。クラシックでは、ヘンデルの時代までが盛んで、装飾音をたくさんつけて、カデンツァとして歌ってました。それ以後は、カデンツァは、だんだんなくなります。それでも、日本のソプラノの歌手も、ヘンデル作曲の歌曲「ラシャ・キオ・ピアンガ(私を泣かせてください)」などは、華やかな装飾音をつける、カデンツァをつけて歌います。
  ポップスのカデンツァは、これとは違うのです。ジャズやポップスでは、ドミナントコードの時に、装飾のカデンツァをつけて歌い、トニックコードで、解決して歌い終わるのです。ドミナントコードは「属音」、「トニックコード」は「主音」です。
  アリアや重唱は、楽譜通りに歌わないと、バラバラになり、オケと合わなくなります。しかし、歌曲は、キーも自由に変えられるし、歌唱の表現もいろいろです。歌が上手な人にとっては、腕の見せどころ。まじめに歌うだけの人にとっては、大変難しく感じます。そして、ルネはポップスのカデンツァと、ヘンデル時代のカデンツァを、縦横無尽に使って歌えるのです。だから、ルネの歌曲は、表現にものすごく幅があります。ジャズやポップス、ロック、なんでも歌えるからこそ、それができるのです。スーパーボウルでの国歌斉唱や、オバマ大統領の、就任記念式での「回転木馬」などは、その真骨頂です。ふつうのソプラノ歌手は、ここまで表現できません。もっと、シンプルにしか歌えないのです。

  ところで、コンサートが終わった後、遅いディナーを食べながら、ルネに直接聞いて確認しました。
  「シュトラウスにしろ、フランス歌曲にしろ、あんなにゆっくり、タップリ歌えるのは、ジャズのゆっくり、タップリ歌う技術をベースにしてるからですか」と聞くと、
  「イエス。その通りよ。実は、ジャズやロックのCDもリリースしてるのよ。でも、批評家が色々と批判するので、最近はやめてるの。あなたも、言われない?」
  「私は、批評を超越した世界に生きてるので、関係なく、ガンガンリリースしてますよ」
  「うらやましいわ」
  「もっと年を取れば、何を言われようと、好きにやればいいんじゃないですか。本来、音楽には垣根がないはずなのに、クラシックの批評家は、それでメシを食ってるので、何か言いたいのですよ。クラシックにはクラシックの良さ、ジャズにはジャズの、ロックにはロックの良さがあります。どれも、捨てがたい魅力があります。しかし、クラシックの批評家は、ルネのジャズやロックの良さを、聞き分けて楽しむほど勉強してません。また、つまらないプライドがあるので、クラシックが一番と思う傾向があります。それで、ボーダレスの歌唱を批判するのです。でも、年取れば、関係なくなるんじゃないですか。
  サラ・ブライトマンも、セリーヌ・ディオンも、素晴らしい持ち声があり、クラシックの発声を学び、ポップス界で大成しました。ルネは、ポップスやジャズでもプロでやれるのに、クラシック界で大成するなんて、すごい事ですよ。年取れば、音楽を幅広く楽しみ、逆流しましょうよ」   「そうね。きっとそうね」
  という会話をしてたのです。
  このように、ルネの歌唱のテクニック、特に歌曲においては、ジャズやポップスやロック、ゴスペルなどの技術が、隠し味として入ってるのです。
  私もそうですが、私はさらに、宝生流の能の精神性や内面表現を加えます。つまり、「なり切りの自在歌唱」を行うのです。具体的には、モーツァルトやロッシーニの曲は、明るく軽い響きで歌い、ヴェルディの曲は、声量を2倍にし、重厚な中にも明るい輝きのある、ヴェルディバリトンで歌うのです。「バスティアニーニ」が、いつもヴェルディバリトンの教科書です。ちなみに、ワグナーの曲は、チャップリンの演じる、独裁者の軍服のように歌います。
  能楽師は、面(おもて)をつけ変え、同じ声で歌いますが、心の声で謡うのです。だから、役柄に成り切り、観客の心に沁み入る内面波動を、出し分けるのです。音色や響きの波動も、自然に変わります。観客も、そのように聞こえるのです。それが、優れた能楽師の、「なり切りの内面芸」です。私は、これを声楽に応用してるのです。
  能楽師は、そこにカリスマ性があり、電流の走る感動を与えられるのが、名人です。宝生流には、三名人が居り、野口兼資(かねすけ)、松本長(ながし)、近藤乾三という人が、戦後しばらく居たのです。しかし、なによりも、明治の大名人と言われた、家元の宝生九郎が居たおかげです。その影響下にあってこそ、名人芸を発揮できたのです。
  これは、オペラや声楽にも言える事でしょう。私は、40才から声楽を始めましたが、それまでの蓄積があるので、ハイバリトン、バスバリトン、バスの三つの音域で歌えます。「椿姫」のジェルモンのアリア、「プロバンス」。「魔笛」のザラストロのアリア、「おお、神よ」、「この清き世界を」。この有名な、ハイバリのアリアとバスのアリアを、どちらも愛して歌います。
  中低音は謡曲で磨き、中高音はポップスや演歌、アニメソングで磨いたのです。そして、ハイノートは声楽を始めて、テノールの先生から習いました。本来の音色は、リリコ・スピント・テナーなので、H(ハア)(シ)まで出た時に、テノールに転向する事を勧められました。
  また、北京で共演した、ヨーロッパのテノール歌手に、こんな事を言われました。
  「私はバスを4年、バリトンを8年、テノールを6年やってるが、君の声は、典型的なリリコ・スピント・テナーだ。簡単ではないが、テノールに転向したらどうだ。きっと、世界的なテナーになるよ。雰囲気も姿も声も、テノールのスターそのものだ。私にできたんだから、きっと君にもできるよ。その持ち声が、もったいない。真剣に、考えてみないか」。
  ドミンゴも市原多朗も、バリトンからテノールに転向した人です。そんな人は、たくさんいます。それで、私も真剣に考えました。その結果、やめたのです。
  なぜなら、25才から会社を何社も経営しており、400人の従業員に、ハイCで怒鳴っても、全く迫力がありません。また、バスで怒鳴ると、ヤクザの親分のようになります。バリトンなら、ゴルバチョフのように、説得力があります。つまり、ペレストロイカやスミイカのように、改革したり、怒ってスミをかけても、迫力や魅力があるのです。また、忙しい経営者の日々で、常にハイノートのために、声帯をケアーするのは不可能です。それで、テノールをやめ、バリトンに徹することにしたのです。それでも、カウンターテナーを入れると、今でも4オクターブで歌えます。マライア・キャリーのように、5オクターブは無理ですが……。しかし、裏声を入れず、きれいに響くのは2オクターブ半ぐらいです。
  なぜ、こんな事を書くかと言えば、日本人は、西欧音楽や西欧芸術を、まじめに考え過ぎるからです。何才からでも、興味があれば声楽を始め、楽器を始め、学校に通えばいいのです。
  私は大学を5つ卒業し、博士号を2つ取りましたが、ルネも3つ大学を卒業しています。鑑賞するだけでなく、実際に習ってみて、はじめてその芸術の深さが解り、本当の楽しみ方がわかるのです。
  また、私は日本の芸術や文化に、自信と誇りを持ちます。それで、茶道、書道、華道、能の師範免状があります。また油絵と水墨画、時計や洋服のデザインと、木版画や陶芸を創り分けます。そんな、美術家でもあります。また、西洋の小説と詩、日本の俳句と短歌、ギャグを書き分ける、文芸家でもあるのです。
  だから、いつも「なにが西欧音楽じゃ、なにがオペラじゃ、なにが西欧芸術じゃ」と思っております。それで、何才からでも、どのレベルからでも、どんな難曲でも、平気で挑戦するのです。腹の底では、いつも「なにがクラシック音楽じゃ」、「なにがオペラじゃ」、「なにがヴェルディじゃ。この、ヒゲおやじめ」と思っています。西欧文化にひれ伏す、日本人が許せないのです。大和魂があるなら、西欧文化に勝つ日本文化や、芸術表現をやるべきです。また、そういう、日本人になるべきなのです。
  そんな気概で設立したのが、NPO法人世界芸術文化振興協会なのです。

  ところで、今回はルネのレパートリーが、軽い曲が多かったので、バランスを取るために、私もコナルも、軽い曲を選曲しました。
  ルネの選曲には、マニアックなものもあるので、私は皆になじみのある曲を選びました。テノールがよく歌う曲もあるので、テノールで聞き慣れた人には、なじまない人もいたと思います。しかし、カンツォーネや歌曲は、どんな声でも、どんな表現でも、誰が歌ってもいいのです。ハートが伝わり、感動して良かったらいいものです。キーを変えてはいけない、アリアや重唱とは違うのです。
  ところで、クラシック歌手と、ポップス歌手の大きな違いは、まず、裏拍(うらはく)感覚のあるなしです。楽譜に書いてあるのは表拍(おもてはく)ですが、その通りに歌うものではありません。「サマータイム」や「マイフェアレディ」など、ミュージカルやポップス、ジャズなどは裏拍感覚、ビート感覚、スイング感覚、フェイクという、「乗り」や「ゆれ」、「間」や「遊び」がないと、全く感動がありません。
  クラシックにも、「アゴーギグ」という言葉があり、音楽の「ゆれ」を表します。まあ、アゴがギクギクすると覚えればいいのです。
  アリアも、楽譜通りにキッチリ歌うと、何の感動もなく、面白みもありません。「アゴーギグ」があり、ゆれがあって、はじめて感情や思いが伝わるのです。
  それで、日本人のオペラ歌手が、ミュージカルを歌うと表拍で歌います。だから、いつも変です。何を歌っても、クラシックのようになり、面白みや感動がないのです。それは、クラシックとの歌い分け技術を、ちゃんと教える指導者が居ないからです。ちゃんと技術を学べば、誰でも両方が歌えるようになります。
  ルネは、この歌い分けが、完璧に出来るのです。
  「サマータイム」や「踊り明かそう」などは、裏拍のポップス感覚で歌うからこそ、あんなに感動するのです。私の「ダニーボーイ」も、そのように歌ったのです。
  ルネは、さらにドイツリートのテクニックや、フランス、イタリアの歌曲も勉強し、見事に自分のものにしています。そして、自分の声や音色も、それに合わせて使いこなすのです。
  それから、テクニックで言えば、音大の教授や声楽家なら、誰でも解る特色があります。それは、中間音域の豊かさや美しさです。日本のソプラノ歌手の中には、高い音は出ても、中間音域がスカスカの歌手がたくさん居ます。それは、メゾやテノール、バス、バリトンにも言える事です。そして、ポップスやジャズは、この中間音域の魅力で聴かせるものです。だから、ますます、クラシックしかできない歌手が増えるのです。
  しかし、本当は、ルネの中間音域の豊かさは、若い頃からジャズ、ポップス、ロックが好きで、毎日歌ってたから発達したのでしょう。
  ルネは、さらに高音も低音も豊かで、魅力的です。しかし、高音域は、四十代に比べると、若干つやが足りなくなった感じがします。それでも、豊かで胸がときめく、高音域の響きは変わりません。温かくて、電流の走る感動があるのです。キリ・テ・カナワは、聖らかで電流の走る感動があります。

  ここからは、技術を超えたものの説明です。
  思い通りに、自分の声をコントロールする技術をマスターしたら、次にイメージ。次にハートをこめる技術です。そこから、さらに進むと、舞台で上から何かが降りてくるそうです。ルネは、そう言ってました。
  先日亡くなった、クラウディオ・アバドも、小澤征爾も、同じような事を言ってます。カルロス・クライバーや、フルトベングラーもそうでした。一流の音楽家は、同じように感じるようです。それは、私も同感です。
  上から何かが降りてくるのが、本番の良さであり、そこに、言葉をこえた感動があるのです。技術を尽くし、イメージと心を尽くし、日常生活や人生の足跡を通して、魂が磨かれ、高まります。その先に、何かが降りて来て、大きな感動を共有できるのです。キリ・テ・カナワも、同じように言ってました。黒澤明監督も同じことを言ってました。クインシー・ジョーンズも、会った時に同じ事を言ってました。これが、技術を超越したものの中味です。
  ルネにはそれがあり、本人も自覚してるのです。それを、マイケル・ボルトンは、「彼女には、神なるものがある」と言うのです。実は、マイケル・ボルトンにも、それがあるのです。歌を聴くだけで、電流が走り、訳もなく涙がこぼれます。
  これらが、グラミー賞を何度ももらう歌手の、共通する所です。
  さらに、ルネは、何度も挫折から立ち直り、誰よりも良く勉強してるので、最高の音楽教師でもあります。ジュリアードでもマスタークラスをもってますが、世界中で教えたいそうです。

  以上が、環境とテクニック、テクニックを超えたものの解説です。
  ルネの舞台を生で経験し、実際にルネの歌唱を聴いた後なので、この3つの角度からの解説が、より深くお解りになると思います。これが、ルネの歌の、どこがすごいのかの答えです。
  これはまた、新聞やパンフでお知らせした、ルネ・フレミングの、どこがどのように素晴らしく、なぜ当代随一のソプラノ歌手なのかの、答えでもあります。文章が長くなり、また私の「手前八丁みそ」や、「手前金山寺みそ」な所があったのを、お許し下さい。
  来年も、新国立劇場で6月に行います。ゲストは未定ですが、また抽選が当たればいいですね。皆様の、益々の繁栄と、ご健勝を心よりお祈り申しあげます。

NPO法人 世界芸術文化振興協会会長、兼脇役歌手 半田晴久合掌。

■追伸1

  6月18日に参加された観客の中に、私がふらふらして歩き、歌う途中でヨロめくので、「体調が悪いのじゃないか」、「足が悪いのかな」と、心配された方があったそうです。しかし、体調は万全で、足も普通です。ただ、「カタリ」や「彼女に告げて」、「帰れソレントへ」などは、男が女性にふられ、絶望し、やるせない気持ちを歌う曲なのです。だから、その曲趣になり切ってるので、身も心もよろめき、絶望でふらつくのです。
  ルネとのデュエットは、ドン・ジョヴァンニが、結婚した花嫁をその日に誘惑する、エッチでふざけた内容です。でも、誘惑されたツェルリーナも、だんだんその気になり、一緒に館に行く気になったという、これまた最低の話です。だから、ドン・ジョヴァンニを演ずる私は、堂々とし、ふらつくことなく、ルネを誘惑します。それで、ルネの声の上を行く圧力で歌い、最後は同調して歌うのです。ふられた男の悲しみや、せつなさを歌うカンツォーネとは、全く反対です。このように、このデュエットは、シャキッとして、堂々とカッコよく、少しエッチな雰囲気で歌うものなのです。
  また、「ふるさと」は、ふるさとを思う歌なので、堂々と故郷をなつかしんで歌います。特に、3番はそういう歌詞です。だから、全くふらつきません。そして、1番、2番、3番と歌詞が違うので、少しずつ、歌い方を変えてるのです。
  それを、1番、2番、3番と一本調子で歌い、母音ばかり響かせ、豊かな声量で何を歌ってるのか解らないのが、オペラ歌手だと思う人がいます。キャスリーン・バトルやホセ・カレーラスの、日本歌曲のCDを聴いて下さい。美しい完璧な日本語で、涙がチョチョ切れます。世界の一流歌手と、世界の6〜8流歌手の違いが解るはずです。ルネやコナルの「ふるさと」も、美しい日本語で、言葉もはっきりわかり、心が伝わって感動できたと思います。
  ところで、カンツォーネの時は、身も心も曲に没入してたので、舞台に出た時から、ふらつき、歌ってる途中も、絶望で足がヨロめいてたのです。そういう、自然な演技だったのです。
  こういう曲を、東海林(しょうじ)太郎の「赤城の子守唄」や、陸上自衛隊のように、まっすぐにシャキッと立ち、大きな声量で、ガンガン歌うテノールの気が知れません。こういうのを、声楽業界では、「テノールバカ」と言うのです。ハイノートを、とにかく大きな声量で歌う事だけに専念し、感情表現や歌唱の芸術には関心なく、ピアニッシモをゆっくり歌い、響きを3千人に届かせる技術など、全く関心がないのです。これが、三流のテノール歌手です。ただ大きな声で、ハイノートをガンガン歌うだけで、何の感動もなく、芸術性もないのが、中国人のテノール歌手に多いのです。無論、優れた歌手もいますが……。
  それを、欧米の指導者は四苦八苦して修正し、根気良く教育しています。
  ガンガン歌うのが、カンツォーネだと思ってる人は、中国に行けばきっと満足することでしょう。しかし、その後イタリアに行き、本物の一流テノール歌手の歌を聴けば、分かるはずです。大きな声量を生かすために、目一杯、ピアニッシモで観客を泣かせてることが。
  

■追伸2
  パンフレットに、政治家の挨拶が多かった理由。

  パンフレットに、政治家の挨拶が多かった理由。
  二期会や藤原歌劇団、新国立劇場でオペラを鑑賞したり、コンサートに行くと、全て有料です。パンフレットも有料で、1000円ぐらい取られます。しかし、今回は入場も無料、パンフレットも無料です。だから、政治家の挨拶が多くても少なくても、文句を言われる筋合いはありません。しかし、その気持ちも解るので、解説することにします。
  本来は、後援を頂いた文化庁の、元である下村文部科学大臣、外務省の岸田外務大臣、東京都の桝添都知事、そして、いつも応援して下さる、安倍総理の挨拶だけで充分なのです。しかし、本当は政府がやるべき、公益性の高い文化事業を、大和魂で世界に向かう民間NPOが、身銭を切ってやってるのです。
  政府からの、財政援助は一切ありません。
  その事に感激し、心から応援したいと思う、親しい政治家がたくさんいます。そんな方達が、心から声援を送る気持ちで、挨拶文を寄せて下さるのです。それを、無下に断れますか? 一人一人のお気持ちを、有難く思うので、パンフレットに多めに載せるのです。
  有料のコンサートで、有料のパンフレットなら、2〜3人にします。お金を出した人の気持ちを、最優先するからです。しかし、今回は、全てを無料で提供する、公益性の高い文化事業です。だから、観客側と主催者側の、両方の気持ちを大切にしてるのです。その妥協点が、多めの挨拶文になったのです。
  来年も、挨拶文は多くなるでしょうが、背景をご理解頂き、納得してお越し下さい。抽選に当たり、来年も来て下さるよう、心よりお待ちしております。

東京国際コンサート